三角関係こそが恋愛だ 〜こころ後編〜

あはれ、二月も終はりぬ。私としてはやる気のどん底だった去年の今頃を思い出すと、現在のほうが断然充実していることを八百万の神に感謝したくなる。たとえ足裏にステロイド剤の注射を打たれても、だ。オリンピック選手並の運動をしているわけでもないのに、歩くだけでも痛む右足。以前から足底腱膜炎気味ではあったのだが、ますます悪化傾向に。検査のために撮影した、エックス線写真で見る足の骨の美しさには惚れ惚れしてしまったが、「エックス作業主任者」の資格をもとに、今度は自分で動物の骨格の画像を撮って、医学と芸術の融合を目指すのだ〜〜!(その前に足底腱膜炎に詳しいどなたかの御助言求む。)



本題。今回はこころの「先生と遺書」の部分。いつものように、いろいろと興味深い意見や質問が出た。
Q.先生はどういう方法で自らの命を絶ったか。
妻には血の色を見せないで死ぬ積り、とあるのでKのように刃物を使わないことは確か。私と出会った鎌倉の海で溺死すると、事故にも見せかけることができるし、物語のはじめと終わりの場面が一致するので、うまくまとまるようだ。

Q.私と奥さんは先生の死後、なぜ結婚すると考えられるのか。
この小説にはいくつかの反復が出てくる。叔父に裏切られた先生がKを裏切る。先生が好意を抱いたお嬢さんをKが好きになる。中核にある人間関係では、奥さんを頂点に次のような反復が予測可能である。よって、私が奥さんと結婚するのも考えられないことではない。


Q.こころの同性愛的人間関係の側面はどこに現れているか。
男同士の血のかけ合い。命の継承とでもいうべきか。

私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴せかけようとしているのです。
私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です。

このように先生は書き残し、自分がKから浴せられた血を今度は私に受け渡していくのである。こころはどこにあるのか?が話題になったとき、私はそんなの脳に決まってるよ〜、心臓だなんて!?これだから文系の人は…と思っていたが、命を懸けた想い=こころと考えるならば、命の象徴としての「心臓」と答えても納得はいくかな。しかし、不気味なほど深遠なる作品であることよ。読むのが辛いね。



現代思想においては「欲望とは、他人の欲望である」と考えられ、漱石が描いた三角関係恋愛模様があらためて注目されているそうだ。Kが価値を認めるから、先生はますますお嬢さんが好きになる。恋愛は当事者同士だけではなかなか維持したり、盛り上げるのが難しいのかもしれない。適度に他者をも巻き込みながら、皆様には恋愛を楽しんでいただきたく思う。(正直なところ、そんな高度な技が使えない私としては、引き篭もるばかりであるよ。)