太宰の仮面、三島の仮面。

人間失格」が「斜陽」以上に面白い作品であることを発見した私は、「あれって、太宰版『仮面の告白』ですよね!」と息堰切って報告すると、教養あふれる方々は、「何を今さら…そんな当たり前のことを。」と冷ややかな視線をプレゼントしてくれるのでした。
人間失格」において、主人公の葉蔵は「道化」を演じなければいけない理由は「人間が恐いから」だと述べています。他人が何を考えて生きているのか、全く想像がつかない。恐ろしい。その気まずさに耐えられないから道化の仮面を被るのだと。

それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。

一方、三島はといえば、「仮面の告白」において明確には、なぜ演技をしなくてはならなかったかは書いてありません。ただ厳格な三島の家庭においては、祖母や両親から長子として相当の期待があったものと考えられます。小さい頃から周囲の大人たちの期待を鋭敏に嗅ぎ取って、忠実に優等生を演じていた彼。親交の深い美輪明宏に対し、「君は自由でいいなぁ。」と漏らしたこともあるとか。


母の着物を持ち出し、「天勝」という女優に扮してはしゃいでいた彼は、放心して青ざめている母の顔を見て、涙が滲んで来てしまう。
人間失格」での葉蔵は、真夏に、浴衣の下に赤いセーターを着込んで、家中の者に笑われ、可愛がられる。


このような家庭環境の相違も、多分に影響があったことでしょう。
三島は他者の期待に応えられないことを恐れ、太宰は他者に期待されることを怖れていたように感じました。そういう意味では三島は他者に対して誠実で、太宰は自分に対して誠実であったと言えるかもしれません。
私自身はこれまで、他者に対する責任から逃れ続け、なんだかだらしない太宰(作品の主人公?)が嫌いでした。三島のように腹を括って、他者に対して誠実に責任を果たす生き方の方が美しいと思えたからです。


しかし、F先生曰く、「そうかな?太宰は道化を演じる自分を自己嫌悪していたけど、三島にはそういうところがないよね。」
「自分に無意識はない。」と言ってのけるほど、気を遣って生きていた三島は周囲に対して尽くしているという自負があったのでしょう。


私自身は、沈黙や緊張した雰囲気に耐えられないと、自分の失敗をネタに道化を演じてしまうこともありますが、自分はこんなダメな奴だから期待しないでよね、と予防線を張っているわけではありません。(しかし、愛想を振りまくのは、ひょっとしたら、人間への恐れがあるのかもしれませんが。)立場上、責任のある言動を行わなければいけないときは、自分の本来の感情を抑制して、周囲の期待どおりに振舞います。普通の人でも、それぞれ太宰風、三島風仮面を時々によって付け替えて生きている部分はあるのでしょう。ただ、文豪達は終生意にそぐわぬ仮面をずっと被り続けなくてはいけないのが悲劇でした。いつ終わるとも分からない人生という舞台の幕を自分の死によって引かざるを得なかった気持ちも分からなくはありません。


いったい他人の欲望を生きない人生が可能であるのかどうか、自分の隠された本心を掘り出しつつ、考える日々であります。